修業時代 (1862 – 90)
7歳の時、はじめてピアノを学び、1871年(九歳)から3年間、かつてショパンの門下と自称するモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(Mme Maute de Fleurville)(詩人ヴェルレーヌの義母)について本格的レッスンを受け(稽古は、ヴェルレーヌ夫妻と一緒に住んでいたアパルトマンで行われた。
この家にはアルテュール・ランボォが客としてしばしば訪れている)1872年10月、パリー国立音楽院に入学することができた。
ここではピアノをマルモンテル(Antoine Marmontel,1816~93)に、ソルフェージュをラヴィニャック(Albert Lavignac, 1846~1916)に、のちに和声学をデュラン(Auguste Durand, 1830~1909)に、作曲法をギロー(Ernest Guiraud, 1837~92)に師事した。
中でもラヴィニヤックとギローは、彼の天分を支持してくれたようである。
素晴らしい伝統を持つ音楽学校に入ったが誰も彼にフランス語の文法や綴字法を教えなかった。
1883年、ローマ大賞に応募したが、第2賞第1席。84年、輝くローマ大賞を得た。 入賞曲はカンタータ「放蕩児」(L'Enfant Prodigue)で、翌年ローマに出発した。留学中は社交性に欠けている彼は、常に孤独で、3ヶ年の期間を一年早く帰国した。
しかしこの間に、パレストリーナやラッソのミサを聴くことができ、レオンカヴァルロ、ヴェルディとも会い、さらにズガンバーティ家で、リストとの二重奏を聴くことができたなどのプラスがあった。
パリーの修業中のドビュッシーは、経済的に恵まれなかった。マルモンテルの推薦で、かってチャイコフスキーの後援者であつたフォン・メック夫人の子供家庭教師となり、1880、1881の2年間、その家族とスイス、イタリアに旅行したり、ロシアまでも見学することができた。1882年ウィーンで初めてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いた らしい。その後も声楽教師の伴奏を手伝い、その収入で書籍
や絵を購入し、教養の補強に努めた。
1884年には、教養ある建築技師ヴァニエ家に出入するようになり、そこの蔵書から多くのものを吸収することができた。
さて留学作品として提出されたものは四曲で、「春」と「ズュレイマ」
は草稿だけであり、ロゼッテイの抒惰詩による合唱曲「選ばれた乙女」(La Damoisselle elue)と、ピアノと管弦楽のための「幻想曲」は、パリーで作曲されたものであった。
これらの作品は、ヴァーグナトやマスネーの影響を多分に受けてはいたが、部分的に独自な個性を見せていた。(「選ぱれたる乙女」の冒頭には五度の並行が大胆に使用された)
1888、1889年には、バイロイトで「パルジファル」「トリスタン」をきき、その自由奔放な和声法にうたれ、ロシア旅行ではムソルグスキーの「ボリス」で音楽には法則というものが存立しない、耳だけがその審判者であることを知った。
さらに彼の創作意欲を誘ったものは、1889年のパリー万国博覧会であり、極東からの音楽舞踊団(日本からは川上貞奴、音二郎一座が参加)の、異国的音楽に深く感動した。東洋的簡素幽玄な表現に、ヨーロッパ的な機能和声、管弦楽法の過重、導旋律の不合理をさとり、ヴァーグナーを抹殺して、新しい音楽美の創造を決意した。
ドビュッシーの旋律の中に、日本の旋律の断片がのぞいたり、六全音音階の意想(ほぼ七平均律に近い半音をもたない音階)はタイ国のものであり、ジヤヴァのガムランの影響をも見せ、日本の笙の四度和声なども、この時に得たものであろう。
1881年12月頃からキャバレー「黒猫」
に夜な夜な足を運び始め、あれこれ歴訪範囲を広げていくうちにマラルメの火曜會にたどり着く。
1890年には、マラルメの火曜会
に、唯一人の音楽家として参加した。この頃、エリック・サティ
とも知り合い、彼の作曲は急カ−ブを描いて新しい道を進んだ。 つまりドビュッシーの印象派作品というのは、これ以後に属するものである。