印象派時代 (1891 – 1918)


彼はパリーに居をすえて、野心的作品を送りだした。まずそのスタートには次のような歌曲集が目立つ。

ヴェルレーヌの詩による

「三つの旋律」(海は美し、角笛の音はかなし、垣のならび)(1891) 

同人の詩による「なまめかしき宴」(Fetes galantes)第1集(1892)第2集(1904)

ドビュッシー自身の詩による「抒情的散文」(Proses lyriques)(1893)

ルイスの詩「ビリティスの歌」(Chanson de Bilitis)(1897)

さらに重要なものは「弦楽四重奏曲」(1893)であり、次に、彼の声望を絶対のものとしたのは、マラルメの詩による「牧神の午後への前奏曲」(Prelude a l'apre-midi d'un Faune)(1894)であった。

Prelude a l'apre-midi d'un Faune
Prelude a l'apre-midi d'un Faune

天才バレリーナ、ニジンスキーが後に演じた「牧神」

これは1894年12月22日、国民音楽協会で初演され、作詩者の激賞をえた。

彼は、歌劇においてもヴァーグナーに対決しようと、 べルギーの文豪、メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」(Pelleas et Melisande)と取り組んでいた。

1899年、ドレスメーカーのロザリー・リリー(Rosalie Lili Texier)と結婚したが、家計を補うため1901年「ルヴュー・ブランシュ」に音楽評論の筆を執ったりした。

やがて「ペレアス」が完成し、1902年4月30日、メッサージェ指揮によって、パリー、オペラコックで初演された。 これは人形劇の為に書かれた神秘劇で、王子ゴローが森で会ったメリザンドと結婚するが、メリザンドはゴローの弟、ペレアスとも近づくことから、ゴローの嫉妬が悲劇を起こすのである。 ともかくもこの歌劇は、ヴァーグナー以後の、20世紀の最大傑作といわれた。

1903年、フランス政府はレジョン・ドヌール勲章を授け、その名誉をたたえた。 翌年、ロザリーと離婚。銀行家の妻であったエンマ夫人(Mme Emma Bordac)と恋に陥ち、1905年結婚した。彼女は美しい、しかも富裕な声楽家であった。この年エンマに子ができたので、そのよろこびから、ピアノ曲「子供の領分」(Children's Corner)を作つた。

その後、多くのピアノ曲、歌曲、その他を作曲したが、1909年ごろから、癌(がん)の症状が表われ、それに1914年、第一次世界大戦には心労が多く、愛国の至情を二台のピアノの為の「白と黒で」(En blanc et noir)(1915)「家なき児らのクリスマス」(Noel des enfants qui n'ont plus de maisons)(1915)を作って寄せていたが、その後、戦争悪化の中に1918年3月25日、パリーに永眠した。